ポカラ(ネパール)-Pokhara-
ネパールがロックダウンになって数日後。
滞在中のペンギン・ゲストハウスに、新しい住人が来た。
日本ではヨガ講師をしているというその方は、アンナプルナでのトレッキング中にロックダウンが始まった。
情報もないので、最初はロックダウンに気づかなかったのだという。
ヒマラヤの山中でロックダウンに巻き込まれ、先日ようやくポカラに戻って来れたみたい。
アンナプルナサーキット(アンナプルナ外周)のコースを1周して、さらにアンナプルナベースキャンプに行くというロングプラン。
通常は、アンナプルナサーキットとベースキャンプへのトレッキングは、どちらか一方を選択して行くもの。
そしてアンナプルナサーキットも、途中の町まで飛行機で行って半周だけするのが一般的なコース。
それを1周して、更にベースキャンプまで行ったのだ。
いいな~。
そのプラン、私も次回トレッキングの機会があった暁には、是非とも真似させて頂こう。
▼前回のお話し▼
ネパールでロックダウン中にお世話になったポカラのレストラン7店舗
ヨガとは何ぞや|ヨガ講師のジレンマ
「ヨガ」って、素人の私にとっては「お洒落女子の為のエクササイズ」なイメージが強かった。
「ヨガやってます♪」と言うだけで、「よくわからないけど何となくお洒落♪」と感じるような…素敵女子の為の趣味感が強い。
だけど、旅中に稀に出会うヨガ経験者やヨガ講師の話を聞いて、それは完全なる誤解だったと知る。
ヨガには様々な流派が存在するので、「ヨガとは!」と一言で語る事は難しいのだけれど、真剣にヨガをしている人たちの話を聞いて、「哲学的」な要素が強いという印象を受けた。
南アフリカで出会ったヨガ講師の女性は、「みんな、ヨガの本質をわかってない!」と憤慨していた。
ヨガの本質を理解せずに、ただエクササイズとしてヨガを行っているだけでは、それは本来のヨガの形ではないと。
ヨガは「激しく動く」や「凄いポーズを取る」が本質ではなく、もっと「自分の内面」と向き合うものなのだ。
だけど、ヨガの初心者に「ヨガの本質」を語ってしまうと、「宗教」や「洗脳」の様に感じさせてしまうから、中々難しいというジレンマが生じてしまうらしい。
まぁ、元々はインドで発生したもの(←起源は所説あるのかな?)だし、「宗教的要素」は実際に存在するのだろう。
だけど、(他国は知らないけれど、)日本人にそれは受け入れがたいから、「エクササイズ」という形でポップに集客しているんだと思う。
しかし本来は、ダイエットやエクササイズは「目的」ではなく、身体をいい状態に保つ為に「ほぐしてあげる動作をしよう」、「食べ物は、身体にいいものを取り入れよう」…その生活習慣の見直しの結果として、ダイエット効果があったりするだけだと。
エクササイズが目的ならばヨガではなく「ピラティス」の方がいいかも。
こちらはアメリカで生まれて、身体の仕組みを科学的に研究して、効率よくエクササイズが出来る様に洗練されているもの。
ヨガと似ているイメージだけれど、本質は全くの逆と言える。
あれだね、きっと「空手」と一緒だ。
空手も、「格闘技としての強さ」を追求するためのものではなくて、「精神を鍛える」事が目的で、結果として身体も鍛えられるものだよね。(←素人による勝手な見解です)
「お洒落な趣味」を目的としたヨガは、「インスタ映えの為のパンケーキ」と同類だと思っていたけれど。(←偏見がヒドイ)
本質としてのヨガの追求は、大変興味深い。
インド大好きだし。
あぁ、だから旅人はヨガが好きなのかな?
完全なる素人が、人づてに聞いた知識を基に感じたことをまとめただけです。
本格的にヨガを学んだ人からしたら、「それは違うぜ!」という部分が多々あるかもしれません。
真に受けないように!(←じゃあ、なぜ書いたんだ。)
ヨガを習得すると人生が変わる!
話を元に戻して、ペンギンゲストハウスに新しくやってきたヨガ講師のKさんについて。
彼は、私より一回りくらい年上の男性で、とても穏やかな方。
彼の穏やかさに興味を持ったので、聞いてみた。
「もともと、穏やかな性格だったんですか?それともヨガの影響ですか?」
答えは、ヨガの影響だった。
ヨガは30代前半くらいから始めたらしいKさん。
元々は、「ブランドもの大好き!」な都会人間だったらしい。
全くの別人の様だけれど、ヨガの影響でそこまで人間が変わるものなのだろうか。
それならば、ヨガって凄く興味深い。
生活スタイルで言えば、ヨガを始めると「身体にいいものを取り入れたい」と思う気持ちが高まるらしい。
だから、長年吸っていた「タバコ」も一切やめたのだとか。(←お酒は飲むらしい)
私は喫煙経験はないから禁煙の大変さは実感したことがないけれど、やめようと思って簡単にやめられるものではないという事はわかる。
それを自発的にやめる気にさせた「ヨガ」って、やっぱり凄い。
だけど、例えばヨガの生徒さんたちに「身体にいいものを食べなさい」「タバコはやめなさい」「早寝早起きをしなさい」と思ったり言ったりはしない。
「自分が自然にそうしたいと思った気持ちに従ったらいい」という考え方だから、他人に対してはもちろん、自分に対しても、ストイックに何かを課したりもしないんだって。
ヨガは毎日の日課であり仕事でもあるけれど、「気分が乗らない」時に無理してやったりもしない。(授業をリスケするという意味ではなく、個人的な意味で。)
なんて穏やかで素敵な生き方なんだろうか。
特に、「他人の生き方を否定しないスタイル」が素晴らしい。
そんなKさんは、現在日本の南の方の県で、「ヨガリゾート」を経営している。
自然豊かな田舎の土地で、自給自足…とまでは言えないけれど、自分で野菜を育てたりもしながら、自然と調和した生活を行っていると。
まさに、ヨガで人生が変わったと言える。
人生が変わったと、本人が言ったわけではないので、念のため補足。
というのも、これを旅人の世界で例えると「旅で人生が変わったと言うのは中身のない人間だ」と批判する人もいるのでね。。
現役ヨガ講師から教わる「瞑想」体験
Kさんが教えてくださるというので、お言葉に甘えて「瞑想体験」をさせてもらう事にした。
Kさんは毎朝6時30分~8時までの1時間30分もの時間「瞑想」しているみたいなのだけれど、私たちは初心者なので30分間だけ体験させて頂く。
目を閉じて、Kさんが言う言葉に従いながら、身体に意識を集中させる。
瞑想…というか「呼吸法」だね。
Kさんがカウントする穏やかな声のリズムに合わせながら、息を吸ったり吐いたりする。
その時に、「鼻の奥を息が通る感覚」「息が喉の奥に入っていく感覚」「肺の感覚」「お腹の感覚」…などなど、身体のあちこちを感じながら呼吸する。
一度に全部を意識するのではなくて、部分ごとに順番に。
「まずは〇〇を意識しましょう」
「(カウント)1、2、3…10(×10セット)」
「次は〇〇を意識しましょう」
「(以下、同文)」
…といった感じで。
普段、無意識に呼吸をしてるだけでは絶対に気が付かない「呼吸により生きている自分」について、とてもよくわかる不思議な感覚。
あぁ、吸った空気は、こんな動きをしながら鼻や喉を通過して肺に行くのか~とか。
え、こんな場所にも空気って当たっているんだ!とか。
静かに神経を集中させながらの瞑想中でなければ、絶対に気づかない繊細な感覚。
(言葉で説明するのって、凄く難しい。。)
身体の内部に意識を向けた後は、外部にも意識を向けてみたり。
鳥のさえずりや、ほうきの音、よくわからない小さな機械音…。
そして、瞑想中に大切なのは「穏やかでいること」。
心を無にして、何も考えない…という事ではない。
何か考えが浮かんできても、それは無理して消さなくてもいい。
だけど、そこに「感情を乗せてはいけない」。
これが、意外に難しい。
「怒りの感情」「悲しみの感情」「迷いの感情」…考え事が深みにはまると、そういった感情が乗りやすいけれど、それはダメだって。
考え事が浮かんできても、それは客観的にとらえて自分は穏やかでいる事。
決して、そこに感情を乗せてはいけない。
難しすぎる。。
いや、でもそれを毎日繰り返した結果、Kさんの様な穏やかで達観した大人が出来上がったんだよね。
瞑想体験…とても奥が深い。
初日はKさんの言葉に誘導されながらの瞑想(呼吸法)だったけれど、翌日以降は好きに過ごす。
あさ6時30分から、屋上で瞑想をしているKさん。
私たちは、だいたい皆7時30分頃から30分だけ合流。
各々でヨガマットを敷いて瞑想を始める。
私は、その30分すら集中力が続かないんだけどね。
20分が限界だ。
現役ヨガ講師から教わる「身体ほぐし」体験
屋上での瞑想が終ったら、Kさんの部屋へ。
9時頃までの1時間、「体ほぐし」を行う。
フィットネスクラブなどで行われている様な激しいエクササイズではなくて、ゆっくりとストレッチの様に身体をほぐす。
「身体が固い」のは、悪い事ではないとKさんは言う。
「もっと伸ばさなきゃ!」と思う必要はなくて、自分が「痛気持ちいい」と思えるところで止めればいいと。
身体をほぐす動作の時も、ゆっくりと呼吸を意識したり、逆に呼吸は意識せずに自然な呼吸のままにしてみたり。
普段は意識しない個所の筋肉を意識してみたり。
身体ほぐしが終ったら、電気を消して仰向けになった状態で、また10分程度の瞑想状態に入る。
これが、凄く気持ちいい。
寝るのとはまた違った気持ちよさ。
ストレッチで少なからず負荷をかけた身体をクールダウンしながら、頭の中を静かに落ち着かせてあげる。
そして、ゆっくりと起き上がり、終了。
その後は、みんなでチャイを飲みながら談笑し、各々のタイミングで徐々に解散していく。
そんな感じで、朝の瞑想+体ほぐしを、Kさんがチャーター便で帰国するまでの間に、何度かご一緒させてもらう。
もちろん「毎日のクラス」という半ば義務的なものではなくて、今日は気が乗らないなと思ったら行かなくてもいい。
だから、参加者も日によってバラバラ。
Kさん流のヨガは、全くストイックなものではないのだね。
自分の体調や気分を大切に、気が向いたときに自由に行うスタイル。
プロのヨガ講師に無償でヨガを教わるのは、美容師の友人に無料で髪を切ってもらうのと同じく失礼な事だと思うのだけど。
Kさんは、「Kさん自身の毎日のヨガのついで(一緒にやっているだけ)」といった風で、快く付き合ってくださった。
ヨギーにはなれない
ヨギーとは、「ヨガをする人」の事。
ニックネームの様に親しみを込めた愛称。
私はKさんと一緒にヨガを行う事は楽しかったけれど、1人になってもやろうとは思わなかった。
瞑想なんかは、1人でも出来る事。
だけど、やらなかった。
「1人でも継続してやりたい」という気持ちはあるものの、なんとなく気が乗らなくて。
全体的に怠惰な生活を送っていたので、その生活の中にヨガを取り入れようと思わなかったんだね。(つまりは怠け者)
無理してやるものでもないので、それはそれでKさんの教えに倣っているとも言えるのかな?
例えば1年くらい通い詰めて、生活スタイルから何から改善されたら、もしかしたら目覚めるかもしれないけれど。
私にとってヨガは、まだ「講師と一緒に休暇のアクティビティの一環で行うもの」の域を出ないみたいだ。
「日常」ではなく「非日常」。
私が人生のうちで、ヨギーになる日はくるのだろうか。
もしもヨギーになれたら、人生がより素敵になるんだろうな。