ー世界はきっと、美しいー
ネパールで帰国難民生活

ネパールから日本へのチャーター便ふたたび|社会人組も帰国

【ネパール帰国難民生活】2020/05/15~05/22

ポカラ(ネパール)-Pokhara-

3/24から始まった、ネパールのロックダウン。

チャーター便の第1便が成田空港へ向けて飛び立ったのが、4/10の事。

ネパールから日本へ、再びチャーター便が飛ぶらしい。

今度は、5/15、5/18、5/22の3便も飛ぶという事だ。

▼前回のお話し▼
ネパールでの帰国難民生活中に挑戦した娯楽|将棋とヨガとバドミントンと

チャーター便の第2便~4便が出る|社会人組も帰国を決める

前回の4/10のチャーター便は、日本円で約20万円。

値段が高すぎるし、コロナの状況的には日本の方が悪そう。

急いで帰る理由も、特にない。

…といった感じで、私の周りの社会人組は誰一人として帰国をしなかった。

帰国をしたのは、心配した親がお金を出す形で半ば強制的に帰る事となった、大学生たち。

今回発表されたチャーター便は、日本円で約10万円前後。

前回の半額程度に収まっている。(それでも通常時よりは高いけれど)

今回のチャーター便は、「ネパールに一時帰国をしている、日本在住のネパール人」の為の運航で、だけど日本人も希望するならば特別に乗っていいよ!というものらしい。

それでも最初は乗り気ではなかった社会人たち。

だけど、それぞれが様々な理由で、帰国を決断する。

うん。

今回は、残る理由の方が少ないもんね。

私も、今回ばかりは帰る「べき」だと思った。

だけど私は、帰国後の生活が全くイメージできなくて、帰るという英断を下せなかった。

この時の私は、帰る場所…日本における自分の居場所を、持っていなかった。

そしてコロナ禍の中で、それを新たに作る自身もなかった。

それが、一番大きかったと思う。

「職」か「家」か…どちらか一方でもあれば、また違ったのだと思うけれど。

コロナ禍の前に予定していた場所には帰れなくなってしまったし、両親は健在だけれど「実家」と呼べるものは持っていない。

失業して職を求めている人が沢山いる中で、競争に打ち勝ってそれを手にする自信もない。

そんな言い訳をダラダラと続けた結果、9月に国際線が再開されるまでの約5ヵ月間、帰国難民という隠れ蓑ワードの下で、ニート生活を続ける事となったのだ。

14日間の自主隔離生活をホテルで過ごす予算が高すぎる…とか。

せめて新千歳空港まで行けるなら、考えるのに…とか。

結局、自主隔離は緩和されるどころか強化されてしまったし、相変わらず新千歳空港行きの国際線フライトは出ていない。

だけどGoToトラベルのおかげでホテル代金が格安になったし、日本の社会状況も落ち着いてきているから、良いタイミングで帰国できたと自分では思っている。

チャーター便での帰国も楽じゃない

私の知り合いの日本人は、ほとんどが帰国を決断。

知り合いの知り合いの日本人も集まって、みんなで協力して帰る事になったみたい。

私の知っている日本人で残留を選んだのは、私を含めてわずか4人だ。

そして、その帰国する日本人たちは全員関西方面へ帰りたい人たちだ。

まず、チャーター便に乗るためには、滞在中のポカラから首都のカトマンズへ行かなければいけない。

だけど長距離移動が禁止されているので、当然バスは出ていない。

自分たちでジープを手配して、「通行許可証」を取得しなければいけないみたいだ。

だから彼等は、短い期間で「チャーター便の予約」「ジープの手配」「通行許可書の取得」の3つを行わなければいけない。

これが、めちゃくちゃ大変そうだった。

オフィスが開いていないので、連絡は全て電話やメールになるのだけれど、やりとりが1問1答形式で効率悪く進む上に、返事がとにかく遅いらしい。

1つの質問に答えたら、また次の質問が返ってくるといった感じで。

いやいや、必要事項は1度にまとめて聞いてくれよ!と、日本人である彼等は思う。

その為、出発前日になっても、「ジープの手配」も「通行許可書」の手配も完了していなかった。

結局、チャーター便に乗るための臨時バスが運行される事が直前になって決まり、無事にカトマンズへ行く手段を確保できたのだけれど。

こんな大変そうな姿を見ていたのも、私が後のチャーター便を全て見送り国際線(商用便)を待った理由のひとつでもある。(←また言い訳!)

チャーター便帰国者たちの、帰国後の行方

帰国を決断した彼等は、成田空港で予約したレンタカーに乗り合わせて、関西方面へと帰る計画を立てていた。

この時点で、「ネパール」はPCR検査の対象国には含まれていなかったので、公共交通機関を使わずに真っすぐ帰宅できるのであれば、検査なしで空港を出る事ができた。

私が検討していた「帰国者の為の隔離施設」は、宿泊のために「陰性証明」が必要だったので、どちらにしても私はPCR検査を受けて結果待ちをしなければいけなかったけれど。

その場合は、政府が用意した結果待ちの為の宿泊施設(こちらは無料)に泊まるか、施設が満員の場合は噂の段ボールハウスに泊まる事になる。

この頃には、段ボールハウスに誘導されるほど混雑はしていなかったらしいので、恐らくホテル泊になっただろうけれど。

現在はPCR検査から抗原検査へと検査方法が変更されているので、結果は数時間で出る。

そして、検査なしで無事に空港を出た彼等は、レンタカーで関西へ帰宅。

それぞれが自宅で14日間の隔離生活を過ごす事となった。(…はず。)

チャーター便を見送った直後の絶望感

自分で帰国しないと決断して(逆に言えば帰国すると決断できなくて)、引き続きネパールに留まる事となった。

だけど、チャーター便に乗るためにカトマンズ行きのバスに乗り込む彼等を見送ったその日。

毎晩毎晩、その煩さに若干苛立ちを感じていた激しいウクレレの音色も聞こえてこない、静かになったゲストハウスの夜。

私は、この帰国難民生活で1番とも言える「絶望感」に襲われる。

私の決断は、間違っていたのではないだろうか。

私も、彼等と一緒に帰る「べき」だったのではないか。

私の中の「したい」「すべき」の矛盾が混乱を起こして、半ばパニック状態に陥る。

この先の道筋が、まるで見えない。

いつまでネパールに留まる事になるんだろうという不安と、帰国したところでどの様に生きていけばいいのだろうという不安と。

まるで、将来への漠然とした不安を感じる思春期の頃の様な絶望感。

そんな不安を抱えて、眠れない夜だった。

今だったら、そんな自分に言ってあげられるのに。

もう少し待てば、自分が納得した形で帰国できるよ。

それまでの数ヵ月間の思い出は、とても貴重でかけがえのないものとなったし、帰国しなかったからこそ得られたものが沢山あったよ。

帰国後の生活も、そこまで不安に思う程のものでもないよ…むしろ、予想が付かないからこそ、少しワクワクもしているよ。

だから、大丈夫。

不安になっている時間も勿体ないし、「ネパールの今」を純粋に楽しんで。

って。

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