明治維新で幕府方だった私の7代前のお爺さんは、いよいよ危ないという頃に、江戸幕府の計らいで北海道に逃げる様に移住してきた。
徳島県から、北海道のせたな町へ。
そう、私のルーツは徳島県なのだ。(徳島県、行った事ないけど)
その後、明治政府による農地改革で土地が均等に割り振られさえしなければ、いま私は大地主の末裔として、悠々自適なお嬢暮らしを満喫していたかもしれない。
曾祖父の代までせたな町で暮らしていたけれど、農家暮らしが性に合わなかった曾祖父(当時としてはハイカラな、洒落た爺さんだった)が、幼い祖母を連れて別の町に移住。
そして母が生まれ、私が生まれた。
…という話を、私が24歳の時に曾祖母の葬式で会った初対面の遠い親戚(曾祖父の末の妹の娘さん)に教えてもらった。
上記の話は口頭なので、史実と違うかもしれないけれど、私の手元にある文献「檜山北部 農地開拓苦闘録」には、「明治17年に、大東伊太郎(私の爺さん)が21世帯81名を引き連れて瀬棚に来た」と書かれている。
これが、この土地の最初の集団入植なのだとか。
あれ??明治17年!?
明治維新からは、だいぶ経っているけれど??笑
(名前出すか迷ったけど…この情報から私を特定しようと調べる熱心な人はいないと思うので。というか、調べられるものなのかな??例えば超偉人の子孫だとしても。どうなんだろう)
という事で、「祖母を幼少期のふるさとに連れていってあげよう&私も自分のルーツの土地に行ってみたい」という趣旨の「せたな旅行」を決行。
祖母、母、わたしの母娘3代3人旅。
せたな町の愛知
以前は瀬棚町という漢字表記の町があったのだけれど、平成17年の3町合併で「せたな町」が誕生。
「さいたま市」もそうだけど、合併でひらがなになるのは何なんだろう。
今回目指すのは、せたな町の「愛知」というエリア。
徳島出身なのに愛知!??
調べたら、徳島というエリアもある。
高知と愛媛がないのは、この2県からの移住者がいなかったという事だろうか。
北海道は、四国からの入植者が多かったと聞いた事があるんだけど。
せたな町は道南にあり、札幌からだと高速道路を使って253km、約3時間20分の道のり。
翌日は、「北海道の離島に行ってみたい」という、母の長年の願いを叶える為に「奥尻島」へ行く予定。
せたな1泊、奥尻1泊の2泊3日の旅。
朝7時半に札幌を出発し、せたな町の入り口に着いたのが13時30分。
6時間もかかってしまったー!(なぜ??)
のどかな畑のエリアにある「ミルク茶房 ひそっぷ」でソフトクリームを食べる。
母は大のソフトクリーム好きなので、遠出をする時はまず「通りがかりにソフトクリームがあるか」を気にするのだ。
牧場のソフトクリームなので、中々美味しい!
母のレビュー。
「牛乳の味が濃厚で、値段も安い!(270円)だけど、コーンがイマイチ」
…だって。
そして、「愛知」と呼ばれるエリアに来た。
だだっ広い、「こんな田舎があるのか!」と思う程の田園風景。
北海道で初期の頃に開墾されたからといって、その後に率先して栄えるとは限らないのね。。
これでも、何もない原野(もしくは森?)から、ここまで土地を耕して自給自足を可能にしたのだから、当時としては物凄い作業だったんだろう。
曾祖母は私が24歳の時に亡くなり、曾祖父は私が中学2年生の時に亡くなっているので、2人ともしっかりと私の記憶に残っている。
だから、2人が若い時にこの土地で出会って、そして結ばれたのかーと感慨深くもなる。
祖母は「愛知」という地名しか覚えておらず…「見覚えがある場所はあるか??」と聞きながら行ったり来たり。
そして、唯一見つけたゆかりの場所。
北桧山町立愛知小学校。
もちろん、建物は建て替えられているから当時とは違うんだけど。
しかしお婆ちゃん。
嬉しそうでも、感慨深そうでもないのよ。
そんなものなのか。
せたな町の真駒内神社
せたな町の、真駒内神社。
そこに、伊太郎さんの石碑があるらしい。
札幌にも真駒内(まこまない)という地名があるけれど、そことは別。
入り口が分からず、、森を通って向かう。
階段を登る。(うわぁ~)
登った先を右へ進むと、神社の裏手に着く。
あった!これかな!?
…と思ったら違った。
開拓五十年の記念碑だった。
神社の表まできたけれど、特に石碑は見当たらず。
撤去されてしまったのかな…。
特に管理されている様子のない、蜘蛛の巣のかかった古い神社。
十二支の像に沿って続く道を、正門に向かって歩く。
すると!
あった!これだ!
なんか朽ちかけているけれど…。
明治時代、遥か徳島県からやって来た7代前のお爺さんに、手を合わせる。
だけど遺骨は代々のお墓にあるから、私は幼少期より知らぬ間に手を合わせてはいたんだよな。
伊太郎さんに対しては、なんの気持ちも込めずに。
帰りは、正門から出る。
日本一危険な神社!?太田山神社
つぎの目的地は、太田山神社。
ここは、「日本一危険な神社」とも言われている。
神社に到着するまでの道のりが、とても危険な道中なのだとか。
海岸線をドライブ。
太田山神社の入り口も、海岸線に。
雲行きが怪しすぎる…。
入り口から、怯む様な急な階段。
垂れ下がるロープを使いながら、慎重に登る。
母も祖母も、私が写真を撮っている間に遥か彼方へ。
北海道のせたな町にある、日本一危険な神社「太田山神社」
序盤から、ロープを使わなければ危ないほどの急な階段修行 pic.twitter.com/CjwkZwsqqI
— Cise@北海道に移住(仮) (@Utar_Cise) July 31, 2022
これは、行きももちろん、帰りも恐怖だよ。。
階段を登り切ったところで、2人が待っていた。
ここからは急な山道が始まるらしく、祖母はここでリタイア。
祖母 「数えたら、138段もあった!まだまだ行けるけど、迷惑をかけたらいけないから戻るわ。」
そう言って、一人で「よいしょ、よいしょ」と戻っていった。
しかし、私も母も、迷わずリタイアを決める。
だって、日本一危険とは言えど「神社への参拝」な気分で来た私たちの服装は、足元こそスニーカーではあるものの、完全に普段着。
しかし目の前のここは、「ちょっとスリリングな神社への参拝路♪」などではなく、完全に登山道だった。
しょっぱなから、ロープが続く。
記念に、やらせ写真を撮影。
さて、帰ろう。
迷う余地なし!即決!
しっかりと登山装備に身を包み、必ずリベンジをしよう。
北海道のせたな町にある、日本一危険な神社「太田山神社」
急な階段を登り切ったら、険しい登山道。
普通のスニーカーでは滑って危ない砂利の急勾配だったので、ここで撤退。装備を整えてリベンジします。 pic.twitter.com/f45jmItnJ7
— Cise@北海道に移住(仮) (@Utar_Cise) July 31, 2022
せたな町の奇岩巡り
また更に南へ走ると、いくつもの奇岩を見る事ができる。
まずは、「タヌキ岩」。
タヌキ!?タヌキかなっ!??
お次は、「マンモス岩」。
これはマンモスだ!マンモスに見える!笑
最後に、「親子熊岩」。
海に落ちそうな子熊を、母熊が救出しようとしているところ。
他にも奇岩は色々あるけれど、これくらいにしておこう。
あわび山荘でアワビ三昧
宿泊の宿は「あわび山荘」。
ネーミングが素敵!ヨダレが出ちゃう!
という事で、もう早速ご飯をご紹介。
いきなり、アワビ三昧。
いやん♡
ご飯もアワビ。
なんて贅沢な食事なの!
どれも美味しすぎて、私たち3人の心は幸福感で満たされる。
アワビのシーズン以外は、何が出てくるんだろう。
温泉のお湯も、素晴らしかった。
(…って、あっさり書いたけど、、お風呂だけ入りに来てもいいかなと思うくらい、いいお湯だったのです!)
このあわび山荘、以前は「国民宿舎」だった様で。
なんか昭和な感じと言いましょうか…素朴な雰囲気にホッコリとさせられる。
学生の合宿所みたいとも言える。
ロビーの池に、亀もいるのよ!
翌日の朝食も、素朴なバイキング。
こんな素敵なお宿が、なんと実質6,000円!
1泊2食に、温泉も付いてのこのお値段!何度でも泊まりたいっ!
…というのも、せたな町独自の割引「せたな割」が素晴らしすぎたのだ。
定価13,000円に対して、割引が7,000円。
道民割りなんて目じゃないくらいの、素晴らしい割引。
高い宿であればあるほど、お得な割引率。
↑リンクを張っておいてなんですが…せたな割りを利用の場合は、直接TEL予約のみ適用です。
素晴らしい宿を見つけてしまった。
割引がなくても行きたいくらい気に入ったけれど、札幌から遠すぎるのが難点。。
でも絶対に、また来よう♡
wikiで有名人の子孫を調べたりしたこともあるのですが、
実際に現場に行って、お寺等で情報集めたりすれば、もう少しわかるケースもあると思いますが、ネットの情報だけだと、有名人から2,3代でもうわからなくなるケースも多い気がします。
旅行者の身バレとしては、旅先で会った人がブログでぽろっと本名につながる情報を書き残してしまったり、写真を上げてしまったりというケースのほうが多いような気もします。
NKさま
むしろネットの情報で2~3代までなら分かるんですか!
それは驚きですが、7代は流石に分からなさそうですね。
安心しました。ありがとうございます。
旅先では、他のブロガーを介して情報が出る事はありそうですね。
一緒に写真を撮った時に、ブロガーには「顔出しNG」を伝える様にしています。
インスタに載せる目的の人は、そもそも写真をお断り..苦笑
文字で書かれる内容に関しては、相手のモラルに任せるしかないですけどね。。
北海道に住む人の多くは江戸時代末期からの移住者だから
苦労はすざまじいものがあったと思う。
しかし、おばあちゃん元気だわ。
sakaeさま
そうですね、ほぼ未開の土地を1から開墾するのは大変だったと思います。
熊もいますしっ!
あとは先に来ていた第一班がいると、第二班以降の移住者は少し肩身が狭かったり。
お婆ちゃん、意外と元気で私もびっくりしました。笑
札幌~函館、意外と距離あるのに驚きました。やはり北海道はでっかいゾウを実感です。
それにしても、太田山神社はえげつないほど危険な、というのがよくわかります。
土日さま
でっかいゾウは初めて聞きました!笑
でっかいどうではなく!?笑
そうなんです。意外と距離があって、道内旅行も本州で言うところの「近隣県への旅行」くらいの遠出感があります。
太田山神社は、完全にリサーチ不足でした。まさかあれほどとは…。
いつかリベンジいたします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
wikiの北海道知事一覧で、ほぼ同時期の北海道県令について調べてみると、函館県令の時任為基は、子孫に俳優の時任三郎がいるとの記述がありますがそれだけで、札幌県令の調所広丈は、本人後2代までしか辿れないです。
ちせ様が実は実名を明かしての活動で、高名であるとすればそういう形で先祖との関係も記述されている可能性もあるかもしれないと思っています。
せたな割いいですね。貴重な情報ありがとうございます。このレベルの割引はなかなか秋田県にはないので、北海道まで行くのが大変なので自分が利用できるかはともかく、いろいろ研究させてもらいます。
NKさま
そんな調べ方があるんですね。
有名人の場合であれば、取り立てて記載される事はあるけれど…という事ですね。
私は高名ではないので、全く問題ないですね!取り越し苦労でした。笑
考えてみれば、その人の名前だけで家系などわかるはずもないですね。
勉強になりますっ!
せたな割り、いいですよね!
この地域は観光地として人気のある場所ではないので、ここまで大胆な施策で呼び込みをしているのかと思います。
都道府県単位のものより、地域オリジナルのものの方が、掘り出し物があるかもしれませんね。
「そういえば、いつごろ開拓したんだろ?」と思って、自分の先祖をググってこの記事が出てきました。
同じご先祖様でちょっと驚きです。
私から5代前が伊太郎さんです。
余談がありましてルーツを遡りにせたな町の歴史愛好家の方が徳島まで行ったそうですが、伊太郎さんは更にとある方にゆかりのある方だったそうです。
他に伊太郎さんを知ってる人がいるとは驚きでした。
もし、何か伊太郎さんのことが知りたいことがあれば、お知らせください。
子孫その2さま
えー!まさかのコメントに驚きです!
同じご先祖さまなんですね!
私の祖母と同じ代という事ですよね。
何代前まで共通なのかが気になります!
ちなみに祖母はこの旅行の翌年(昨年)亡くなり、伊太郎さんと同じお墓に入りました。その町にはもう誰も住んでいないので、今後お墓どうなるんだろう…と思っています。。
私に伊太郎さんの話を教えてくれた人(ひいお爺の末の妹の娘さん)が、「親戚に自分のルーツが知りたくて調べた人がいる」と言っていたのですが、もしや徳島まで行かれた方と同一人物でしょうか。
ゆかりのある「とある方」が非常に気になります。笑
子孫その2さまの方が、伊太郎さんにお詳しそうですね!もしお気が向きましたら、またコメントください★
(嬉しくて、つい長文になってしまいました…)
わー(‘ω’)!
お返事ありがとうございます!
昨日、せたなに住んでいる父にこの記事を紹介しましたら、とても驚き&喜んでいました。
そして私もどこで分かたれた子孫の方なのか、、と気になっていまして、父に尋ねたんです。
我が家で伝わっている系譜は、
伊太郎→藤太郎→曾祖父→祖父→父→私
曾祖父は長男ではなかったらしいので、内は分家に当たります。多分藤太郎までは一緒かな?という父の見解でした!
伊太郎さんは当初入植したときに、割と海岸側に居を構えたのですが、当時近くにあった後志利別川の氾濫が相次ぎ、少しずつ内陸側に引っ越しをしていったそうです(愛知方面)
徳島まで調べにった方は、私が小学校に通っていたころの副校長先生でして、多分もうお亡くなりになっている?と思われます。
その先生が徳島の「大東さん」が密集している地域を訪ね、伊太郎さんから先を遡ったそうなのですが、大体戦国時代まで遡ることが出来たそうです。
遡った先で見つけたものは、お墓でした。
戦国の世のお墓って、今のお墓とはちょっと違うそうで、うろ覚えですが石を積み上げている段数で地位が分かるそうなんです。
そしてその段数は、大名の一族クラス。
戦国の四国の大名といえば、長曾我部です。
直系ではないものの、分家筋であったようです。
それは興奮しながら副校長先生は話してくれたのを覚えています。
私がしっているネタ(笑)はこの辺で終わりです。
恐らく父はもっと知っている?かもしれませんねw
子孫その2さま
わー!凄くお詳しいんですね!
色々教えて頂きありがとうございます!
2代目の方まで一緒なんですね!そのあと凄い分岐があるのかと思うと、なんだか壮大なお話ですね。
そして長男の子孫ではないからか、5代目6代目の方もお若いんですね!こちらは既に9代目の子供達が産まれています。(数え方間違っていなければ…)
お父様から伊太郎さん、かなり近いですよね!
そして、まさかの長曾我部の家系とはっ!!!
直系ではなくとも凄いです。驚きです。
たくさんの枝の先に、私たちがいるんですね。
開拓日誌(?)は言い回しが難しくてほぼ読んでいないのですが、今度気合いを入れて読んでみようかな…。過去帳を見たら、家系図も作れそうですね!
(将来息子の自由研究にして調べさせるのもいいかも。丸投げ。笑)
先祖の事を知る機会に恵まれて、凄くありがたいです。この記事を見つけて頂き、本当にありがとうございます!
改行できてませんでした。スミマセヌ…(;´・ω・)