ヒマラヤで、「仲間」と思える人たちに出会った。
彼等と別れるときに思った事は、今でも覚えている。
「私はこの先の旅で、幾度となく出会いと別れを繰り返すのだと思う。
だけど、同じ時期に同じ苦難を乗り越えた人たち…これに勝る出会いなんて、果たしてあるのだろうか。」
だけど私はまた体験する事になる。
同じくらい大切な出会いと、同じくらい悲しい別れ。
私のチューター「ケニー」。
私のインド留学は、彼なしには語れない。
1週目、私は誰にも心を開かなかった。
そんな私に、ケニーは辛抱強く声をかけ続けてくれた。
「You are my friend !」
「You can talk to me !」
それでも心を開かずに一人引きこもって勉強をしていた私を、ケニーは外へ引っ張り出した。
2週目から、ランチタイムは学校の休憩スペースで過ごし、夜はダイニングでケニーと過ごす事にした。
それは私にとっては、驚くべき変化だった。
私はケニーに、何度かお説教をされた。
それらの全ての原因は概ね共通していた。
ケニーにとっては「シリアス」な問題を、私が「軽く」扱った事。
でもその問題は私の個人的なもので、ケニーには全く関係のない事。
だれに迷惑をかけているわけでもない事。
まさかそんなに真剣に考えてくれるなんて、夢にも思わない。
私は、足の火傷の痛みを度々隠した。
陰で顔をしかめている姿をケニーに目撃されて「どうしたの?」と聞かれたとき、私は「何でもないよ」と笑って答えた。
翌日、たまたま2りきりだった夜、何故か私はケニーに人生相談をしていた。
ケニーと話しながら、私はいつの間にか泣いていた。
出会ったばかりの「他人」が、こんなに真剣に向き合ってくれるなんて事があるのだろうか。
ケニーの言葉には、とても重みがある。
異国の言葉でそれを言われる事で、よりそう感じさせられるのかもしれないのだけど。
めそめそと泣きながら、拙い英語力で本音をぶちまける私。
そんな私を優しく慰めるでもなく、「泣くな」とクールに言い放って意見を述べ続けるケニー。
その時に、前日の件を指摘された。
「何で昨日、辛いのを隠したのか」と。
それは良くない事だと言われた。
だけど、辛くても明るくふるまう事が「善」だと思っているんだもん。
そしてそれが、私なりの「強さ」でもある。
だけど、それは心配してくれている相手に対して心を開いていないことになるね。
「どうしたの?」と聞いてくれたケニーに、私は「何でもないよ」と偽りの言葉を放ったんだ。
それから私は、(自ら痛みを吹聴して回る事はないけれど)、誰かに聞かれた時には素直に「痛い」と言う様になった。
そして私は、日々の小さな心配事や悩み事をケニーに話す様になった。
ケニーはいつも、ナイスなアイディアを私に捧げてくれる。
「今なにか辛い事があるよね?」と見抜かれたときには、(少し躊躇った末に)素直に話すようになった。
だって言うのを躊躇っている私を見るケニーの目が…怖すぎるんだもん。
ケニーと私は、実は同い年なのだけど。
そうとは思えないほど、彼の人間性は立派だと感じる。
私は、ケニーが出会ってきたたくさんの生徒の中の一人に過ぎなくて、そして一緒にいた期間はわずか1ヵ月ととても短い。
そんな私にでさえ、ケニーは真剣に向き合ってくれた。
ケニーは私の「英語の先生」なのだけど、それ以上に「人生の師匠」の様に思う。
ケニーは私に「英語のスキル」を授けてくれたけれど、それ以上に「人間として大切な事」をたくさん教わった。
私も、もっと真剣に他人と向き合える人間になりたい。
私の人生物語の中では、「ただ目の前を通り過ぎてゆくだけの、つかの間のエキストラ」が多すぎる。
そして、人からの「好意」や「善意」をもっと素直に受け取れる人間になりたい。
ケニーに近づいた目的は、「英語力向上の為」以外の何物でもなかった。
そしてケニーもそれに気づいていた。
その上で、ケニーはその事を褒めてくれた。
これからも続けようと言ってくれた。
だけどそのうちに、私はケニーの人間性にどんどん惹かれていった。
もっとケニーから英語を学びたい。
もっと成長して、褒めてもらいたい。
もっとたくさんの事を英語で語り合いたい。
私はケニーと…「友達」になりたい。
だけどそれは難しい。
語学力も人間力も彼には遠く及ばない私が、対等に付き合えるとは思えない。
だけどいつか、私にそのスキルが備わったときには…私はケニーを「友達」と呼びたい。
私はようやく、クリスマス前の土曜日にこのグルガオンという町を去る。
それより一足先の木曜日に、ケニーが里帰りをしてしまった。
まさかの私が「見送る側」になってしまった。
昼休み、ケニーたちと一緒にランチを買いに行く。
ケニーはいつもの様に、私の前でふざけている。
その姿を見て、私は思わず泣いてしまった。
そしてそんな私の姿を見て、「何で泣いているの?笑」と笑い飛ばすケニー。
真剣に話しかければ真剣に答えてくれるケニー。
ここで笑い飛ばしてくるという事は、理由が伝わっているという事だ。
わかった上で、シリアスにならないようにしてくれる。
だってこの週に来たばかりの新生徒が、状況がわからな過ぎてびっくりしていたからね。
だけど2人きりになったタイミングで、「もしもデリーから帰国するなら、グルガオンに立ち寄ればいいよ」と言ってくれた。
多分一周してデリーまで戻る事はないと思うんだけど…
だけど「今生の別れではないよ、またいつでも会えるよ」という事を伝えようとしてくれていたのかな。
数日前から何度も言ってくれていた言葉を、また言ってくれる。
「メッセージのやり取りなら、いつでもできるよ」と。
ランチを食べ終わったあと、ケニーは学校を去っていった。
私は外まで出ていって、ケニーを見送った。
「Don’t cry !」
あぁ、この言葉を何度言われただろう。
人前では絶対に泣きたくない私は、恋人の前でさえ1~2年に1度くらいしか涙を見せないというのに。
それはケニーが「恋人」でも「友達」でもない、私の「師匠」だからなのかな。
ヒマラヤの時とは、また違った種類の寂しさがここにある。
あの時の寂しさは、「失恋」にも似た喪失感だった。
そしてしばらくは、その場所から動くことができなかった。
しばらくは、「ツーリスト」に戻る気分になれなかった。
「トレッカー」の自分を、なかなか捨てられなかった。
今感じている寂しさは、「中学校や大学」を卒業したときに似ている。
当たり前だと思っていた日常が終わる。
当たり前に傍にいた同級生や、担任や部活の顧問の先生とは別の道へ進む事になる。
その気があればいつでも会う事はできると思うのに、その機会は恐ろしく少なくなる事を知っている。
…そんな感じ。
「喪失感」はないから、私は早々に「ツーリスト」に戻る事ができる。
木曜日に最後のクラスが終って、金曜日に用事を済ませたら、土曜日には再び「ツーリスト」だ。
出会ってしまったら、別れなければならない。
それは旅の宿命。
決して逃れられないカルマ。