カトマンズ -Kathmandu-
今日は、昨日場所がわからず行けなかった日本食屋「絆」に再挑戦してみた。
わからなければインターネットで調べればよいのだという、初歩的な事に気付いたから。
日本料理屋「絆」でランチ
「絆」はタメルスクエアというフードコート内にあった。
入り口が、とてもわかりにくい。
一見、服屋の入り口の様な通路の先にあるのだから。
天丼を頼んだ。
サクサクの天ぷらが、ごはんに突き刺さっている。
日本食屋という事もあって、日本人の客がチラホラ。
今まではごく稀にしか会わなかったので、こんなにいると何故か逆に戸惑う。
街歩きで感じる、ヒマラヤでの成長
食事後、現地の服を調達しようと思い街を歩く。
ズボンとTシャツが欲しいのだけど、どれも私には大きすぎて…結局何も買わない。
私が現地ファッションに身を包む日は、まだ遠そうだ。
昨日から感じていた事だけれど、街を歩いていて声をかけられる頻度が、格段に減った様に思う。
全くないとは言わないけれど、例えば数分に1回ペースだったものが、十数分に1回ペースまで落ちた。
時期やタイミングの問題もあるかもしれないけど…ヒマラヤで逞しくなった私から、当初の様な「カモ感」が減ったのかもしれない。
路地がバイクと車で渋滞をしている。
私はそれを、まるで「ミュール渋滞」をかわしていた頃の様にスルスルと抜ける。
あんなに不便だったミュール渋滞が、懐かしくて堪らない。
日本料理屋「ふる里」で夕食
夜は、ナムチェで出会った日本人T子さんのガイドのアティットと食事。
ヒマラヤトレッキング9日目|今日の私はツーリスト!(ナムチェ)
またしても日本食屋。
昨日も行った「ふる里」。
T子さんからもメールをもらっていて、無事にカラ・パタールに登頂できたみたい。
本当によかった。
T子さんの文面からも、嬉しさが滲み出ていた。
アティットは流暢な日本語を話す。
英語よりも日本語の方が得意だという。
私がヒマラヤで感じた事を、「日本語」で聞いてもらえるのが嬉しい。
今感じている複雑な心境まで、聞いてもらってしまった。
サルエリからカトマンズまでのジープが、カトマンズ中心地まで行ってくれなかった事を話す。
さようならヒマラヤ山脈|最後に13時間のジープ移動(サルエリ→カトマンズ)
ジープは山道を走っていて汚いから、中心地に入るには許可とお金が必要なのだという。
そうだったのか。
私は一緒に帰ってきた彼等にそれを教えてあげたいのだけど、そんな英語力はない。
アティットは「ドライバーも英語力が足りなくて、それを伝えられなかったんだろうね」と言う。
チョラパスへ行く前日、ロブチェからゾンラへの道がとても細くて危険だった事を話す。
ヒマラヤトレッキング16日目|私のゆく道と最も身の危険を感じた日(ロブチェ→ゾンラ)
やはりヒマラヤには、行方不明のトレッカーがたくさんいるのだと知る。
人探しのポスターがたくさん貼ってあるのを見なかったかと言われる。
気が付かなかった…。
素人がヒマラヤで単独トレッキングをするなんて、私はかなり無謀な事をしていた様だ。
私がとても気になっていた事を尋ねてみる。
カトマンズには、なぜ指や足や腕など、身体の一部を欠いている人がたくさんいるのかと。
一つは、「生まれつき」だという。これは予想外。
母親が妊娠中に満足に食事を取れなかったり、お金の為に出産ギリギリまで仕事をしてしまったりなどが原因の様だ。
あとは、「交通事故」だという。
「ふる里」の支払いは、端数の数百ルピー分をアティットが負担してくれた。
なんだか申し訳ない。
その後、カフェに行く。
カフェの店員などは、月収が1~2万だという。
月収20万も稼いでいるのは、医者などの一部の人だけだと。
アティットは、外国人向けのカフェを開いて売り上げの一部を村の子供たちの教育費に充てたいのだという。
教育が受けられない子供たちが多すぎるという話を聞いた。
来年の12月を目途にしているというから、ぜひとも無事に叶ってほしい。
そんなアティットの月収も、決して高くはない。
なのに、カフェ代はアティットが負担してくれた。
「日本人は金持ち」と思っているだろうし、無職なのにプラプラ遊んでいる私に、なけなしのお金を使おうなんて何故思えるのだろう。
例えばアティットのビジネスに投資をする経済力は私にはないけれど、カフェ代くらいなら払ってあげたいと思うのに。
オリンピック年に、日本に行く予定だと言われる。
インド旅行が終ったらネパールに戻っておいでよとも言われる。
たぶんネパールには戻らないから、日本で再会できるといいね。